momo☆彡のスタイル。II

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あたしは快楽主義者

快楽主義」というものを正しく理解している人ってどのくらいいるのでしょう。
快楽主義というのは、自分自身の最大幸福を追求するのではないのです。


たとえば、好きな人がいたとしますよね。普通はその人と両思いになりたい、お付き合いしたいと思うでしょう。で、実際にお付き合いをはじめると、もっと相手のことを知りたくなるし、自分のことを知ってもらいたいと思うようになるでしょう。相手に対する想いや願いはどんどんエスカレートしていくことになると思います。
そのうち、相手の何気ない言葉に傷ついたり、やきもちを焼いたり、浮気してるんじゃないかって疑うようになったり、ケンカするようになったりもします。本当は幸せになりたいのに、いえ、幸せになろうとすればするほど、耐えなくちゃいけないことや嫌なことも増えていきます。


友達をいっぱい増やせば、楽しい毎日が送れると思います。
でも友達が多くなればなるほど、しがらみも増えるでしょうし、裏切られる場面も多くなるでしょう。相手の都合に合わせなきゃいけないことも増えますし、陰口を言われてるんじゃないかって心配になったりもします。眠いのに長電話に付き合わなくちゃいけなかったり、時にはひどいことを言われたり・・・。


誰しもおしゃれしたい、きれいになりたいと思うのは当然だと思います。
でも、当然、お金には限りがあるから、おしゃれするにも限界があって、ある程度のところで我慢しなくちゃならない。
それにこんな服がほしいなって思ってもなかなか見つからなかったり、売り切れだったりしますよね。
そんなこんなで、欲しいものが買えないという欲求不満がたまってしまいます。


本当の意味での「快楽主義」というのは、そういうあいまいなな幸福に期待することはせず、今この瞬間の確かな快楽だけを求めるというものです。ですから、他人とは極力かかわらないようにして、流行も追わないことで、傷つけられたり、裏切られたり、やりたいことができないという不満、つまり不快なことからなるべく距離を置くという、ある意味、とっても消極的な生き方のことを言うのだそうです。



これは、「快楽主義のパラドクス」と呼ばれるもので、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれています。



行為に結果として付随するはずの快楽そのものを目的として得ようと努力すればするほどかえって快楽を得るのは難しくなる、という逆説。例えば、スポーツで最も快い瞬間は脇目もふらずそれに打ち込んでいる時であるが、快楽を気にしすぎていてはスポーツに熱中できず、従って快楽を目指していない時のほうがかえって多量の快楽を得ることが出来る、というもの。


 


momo☆も、自然とそんな生き方をしてきたように思います。
あまりともだちを作ることが苦手です。意識してともだちをつくらないようにしてるわけじゃないんだけど、ともだちはあまり多いほうではないです。
ともだちができても自然と遊ばなくなっちゃいますし、最近もともだちだと思ってた人に誤解からひどいことを言われ、そのひとたちがあることないこと言ったせいで、ほとんどのともだちを失いました。


会社の人とも会社の外ではほとんど遊ばないですし、お休みの日もほとんどひとりでいることが多いです。会社の人と仲良くすると、会社が終わってからや週末もお付き合いしなくちゃならないし、そうすると自分の時間が削られちゃうじゃない?
それに陰でいろいろ言われたり、会社の人の聞く必要のない悪口も聞かなくちゃいけないし、うわべだけ「うっそ〜! いやだ〜!」なんて言って合わせなきゃいけないのも、面倒だし。


男のひととお付き合いしたこともほとんどありません。好きなひとがいても、深く追わないというか、ひっこんじゃうんですよね、なんとなく。恋に積極的になれないんです。相手に近づくために作戦立てたりとかするのも苦手だし、そこまでして・・・・なんて思ってしまうのです。


 


学生時代、実はマクドナルドでアルバイトをしてたことがあって、そこで知り合った男性のともだちにこんなことを言われたことがありました。


   「いつまでも快楽主義なんてやってると、本当に幸せにはなれないよ」



って。
それはわかってるんだけど、結果的にまた、そんな生き方をしちゃってる。苦痛から逃げて生きてる。そんな自分が大嫌い。どんどん自分が嫌いになる。


はぁ・・・。


寝ます。